【池川明 チャンネル】
第135号 死を考える
《内 容》
(質問)
誕生を喜び、死を悲しむという人間としては当然の感情ですが、もしも誕生が学びの始まりで死が卒業だとしたら、死もまたお祝いという風に考えられないでしょうか?
(池川先生)
いやいや、実際、昔は死んだ時にお祝いするんですよね、日本でもそういう風習があったりしたんです、
悲しんで悼むっていうのも宗教的なものが入ってきてますよね、だから土着の色んなものの中で、死ぬのはいけないものだってなんか、正しいと思ってる人が多いんですけど、
あの~、死んだ時にお祝いする村とかもあったんですよね、で死んでまあ、みんなでお祝いして、で土に埋めておしまいみたいな、墓参りもないしね、どこに埋めたかもわからないみたいな、そんな時代もあったんですよ、
だからあの、死というのは日常にあるし、うんやっぱり一緒にいた人が居なくなるのは悲しいけど、多分悲しいというだけでそれ以上でも以下でもない、みたいな感じだと思うんですよね、
で、たぶん今の、死んじゃいけないってのは、思いこまされてますよね、うん生きててなんぼだっていう風に、う~ん、医学なんかそれで成り立ってますから、
だから1分1秒でも永く生かそうっていうっていうのが正しいと信じて、間違ってると思わないんですよ、
だから、延命治療が当然・・・、家族もやるだろうし、医者もやるだろうってことで、一生懸命やるんですけど、
寝たきりで10年、ものもしゃべれないけど介護してるっていう人いる訳ですよねえ、これはどうなのかなあ、って・・・、
それを喜ぶ人がいれば良いんだけど、あの~特にね、意識もないし、あと数日の命です、家族の人をみんな集めてくださいって言われて集まってきました、
で、その方が一ヶ月、生きてたとします、家族の人はどうですか?っていうことですよ、もう数日で死ぬと思ったから来たのに、一ヶ月も生きられたら困るっていう人達もいる訳でしょ、
仕事も休んで来てるのに、いつまでいるんだよっていう話もあったりして、現実社会の中で、その、死と向き合う時には何だか敬虔な気持ちになるけど、
それがずっと先延ばしで、ホントは喜ばしいことなんですよ、生きてれば良いってことなのでね、それが何となく早く死んでほしいっていう願いを持ったりする人もいたりする訳で、
必ずしも死というものが、ホントにその悼むべきものっていうものでは無いのは、心の奥底には皆さんあるんじゃないですかねえ、
うんやっぱり現生の利益と、亡くなるものの悼む気持ちのその、相対的なものになってる様な気がするんですよね、もちろんそれは人によって違うと思いますけど、う~ん、
で、死んだ後の世界がね、胎内記憶やると出てくるんですけど、すごく良いとこらしいんですよね、
う~ん、そう考えると、死んだら良い世界に行けておめでとうぐらいの感じが・・・、
別れるのは悲しいけど・・・、悲しいのがいけないものと思ってるけど、やっぱりあの~、親しい人が分かれる時って悲しいですよね、2~3ヶ月も一緒に暮らしてて、もう国に帰んないといけませんなんて言う時、泣いて別れる人っていっぱいいますよね、
う~ん、じゃそれがいけないのかっていうと、別にいけなくはないですよね、でそれはあの、生きてるから、他の国で生きてると思うから笑顔でね、まあ、分かれて悲しいけどまたお手紙でも頂戴くらいのこと言えるけど、
死んだ後もね、魂が生きてるんだとしたら、形は変えるけど、また連絡くださいくらいのことをね、言える様な時代が来ればね、
う~ん、死んじゃいけないということそのものが、考えが変わるかも知れませんよね、ホントはこの世の中が死んでる世界かも知れないしね、むこうから見たらね、
う~ん、だからその、相対的な考え方なので絶対こうだっていうのは多分無いと思うんだけど、みなさん自分の相対的な考えの中に、自分は絶対だと思ってるだけで、
う~ん、あのホントはそんなに決まったものは無いんじゃないかな?、っていう風に考えますけどねえ、